宗教性とエンターテイメント
人々が目に見えない神秘的な力や霊力にリアリティを感じる時代が過ぎて登場してきたのが宗教である。本来の“まつり”に宿る精神性は、宗教が登場する前の個人としても集団としても生存していくことが必死の命題であった時代の頃の話である。海や山の恵み(魚や動植物も含め)を祈願し、感謝の礼を盡す。疫病や災害などの災いを防いだり悪霊などを祓う。作物を作るようになってからは、五穀豊穣を願い、そして感謝する。祖先の霊を慰める。というようなことが“まつり”の根拠としてあった。つまり、そうした心性は自然界の脅威や奇跡や不思議さという目に見えない大きな力に対する人々の本能的な身構え方として行われてきた。
その後登場した宗教は目に見えない大きな力を神と名付けた。或いは、神と呼ばれていた事象に教義説明を施した。地域に根差していた崇拝の対象物が抽象的な象徴となり、言葉の力が人々の心に革命を起こした。宗教はそれまでの暗黙の伝承による物語と儀式を利用しながら勢力を拡大していった。暗黙の伝承による物語と儀式、すなわち古来の“まつり”の建てつけは宗教と格別に相性がよかった。全ては神という偉大なる中心概念に引き寄せられ、社を囲って音楽が奏でられ、歌い踊り、仮面、仮装の異空間が広がっていった。そうして新たに大きな共同体=国家が整えられていった。
日本に限れば、個人の信仰心よりも儀礼的な行事に参加することが神を意識する場であった。祀りから祭りへ、お祭りが宗教性と結びつくのは、日本特有の多神教はもともとがエンターテイメントの伽藍であったということだ。行事やお祭りがとてつもなく多い日本、みんなと一緒思想が根付いた理由のひとつに行事やお祭りへの集団参加があるだろう。
そして、日本のお祭りは宗教性を帯びながらエンターテイメント化していく。数多おわする神々のキャラの豊富さを見れば頷ける。多神教的な感性は沢山の妖怪や化け物をも生み出してきたが、その感性は現代に引き継がれはっきりと映し出されている。現在、世界を席巻しているマンガやアニメ、キャラクターグッズの人気はそうした背景の続きなのである。日本人の宗教性には娯楽がたっぷりと塗されているのだ。お伊勢参りしかり、初詣しかり、登山しかり(山は御神体であり、頂上には祠がある)、その他諸々。それが都市空間においても娯楽性満載の商業主義的な現代のお祭りに引き継がれている。しかし、私たちの無節操な欲望にもその背後に古来からの精神性が見え隠れしているはずである。形を変え、向きを変えた現代の精神はかつての命たちをどう活かしていくか、心の身構え方が問われるところである。
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