お祭り的な社会装置の限界 ②

現代社会における“まつり”の形骸化 

本来、“まつり”とは、人と自然、死者と生者、神と人間の関係性をつなぎ直す場であった。しかし現代の“お祭り”は、本来の儀礼的・霊的意味が失われてしまったように思える。「お祭り」を「町おこし」に利用するのは、共同体の結束という意味では理にかなっていると言えなくもない。伝統保存会の人々が神輿を担ぐ姿は勇ましくもある。そこには、賑わいがあり、演出があり、組織と段取りがある。しかし、その奥に、神の気配はあるだろうか。その場に立ったとき、身体が震えるような畏れや、見えない何かに包まれるような感覚が、果たして残っているだろうか。

“まつり”とは、かつて、生と死の境界に立つ行為だった。人はその中で変容した。苦悩を吐き出し、仮面をつけ、叫び、踊り、涙を流し、時には魂を神に明け渡しながら、“まつり”の只中で新しく生まれ直した。けれど今のお祭りには、「変わってしまった人」がいない。お祭りが終わっても、元の場所へ、元の顔で、元の言葉を話して帰っていく。それはもはや、「まつりごと」ではなく、単なる「催し」、「イベント」になっている。

古来の“まつり”は、地域社会のつながり、共同体の再生・再確認のための儀式であった。

しかし現代では、少子高齢化や都市化、個人主義の加速により、お祭りは観光客の誘致を主とした商業主義と伝統文化の保存活動へとすり替えられている。

“まつり”の核心には、“神に触れる”体験=神聖への接続がある。しかし現代の感性は、「神」や「見えないもの」に対する信が弱くなり、“まつり”の霊的側面が忌避・誤解・無視されがちで、“まつり”の精神性が希薄になっている。それでも、“まつり”の精神性は、忘れられたわけではない。“扱いにくいもの”として避けられているのだ。「神とは何か」などと語ると、怪しまれ、「見えないものに触れた」という体験は、黙っておく方が無難だとされる。だが、“まつり”の本質はまさにその“見えないもの”との交感にある。魂が震え、記憶にならない何かが残る、そうした出来事の重みこそ、“まつり”がもたらす“生の深まり”ではなかったか。

本来まつりには静寂や沈潜、祈りと瞑想、苦しみを浄化するプロセスがあった。しかし今は、まつり=にぎやか=盛り上がり=SNS映えというような単なるテンションの高揚を目的とした熱狂に堕している。そしてもう一つ、まつりの形骸化を招いたのは共同体の崩壊である。かつてのまつりは、村全体、地域全体の“まつりごと”だった。老若男女が参加し、それぞれの役割があった。神輿を担ぐ人、笛を吹く人、踊る人、ただ見る人。それぞれが“まつりの環”に生きていた。けれど現代では、その環が解体され、まつりは「担う人」と「見る人」とに分かれ、さらにそれらの人々さえも高齢化し、減少している。

からだはうすでは「まつりの呼吸」の奥の院としての位置付けで「舞踏」を行なっているが、それは、こうした失われた“まつりの魂”を、ひとりひとりの身体のうちに取り戻すための行である。まつりとは、誰かが“準備するもの”ではなく、あなた自身のうちに点火されるものである。神は、外からやってこない。呼吸とともに、汗とともに、震える身体とともに、あなたの奥から、あの祭壇に立ち上がるの

三鷹 整体治療院「からだはうす」

1984年心身のメカニズムを探求する場として「からだはうす」を開設。 整体治療による施術を中心に呼吸法、ヨガ、ストレッチを通して、心身の不調改善の作業と共に取り組んでいます。 精神的不調については随時カウンセリングを行います。

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