定点観測 1 (1999、1/30)

心がひとりぼっちになると、ようやく奥を覗きはじめる。感覚が見える。どうにも、ことばにならない情景、在るという感じとは正反対の虚がめくるめく。それでも、ことばによるいのちの誘拐劇の幕間のひとときを、敢えてことばにするのも一興かもしれない。

私は何かが足りない自分がかわいい。すべてが上手くいく自分が想像できない。絶対に他人とは違っていたい。世間の人たちの世界観や人間に対する理解の仕方は間違っていると思っている。この辺が私の言説のベースであろう。そして、私にとって矛盾と逆説こそが信頼に足り得るものであることを表明しておこう。何しろ、私の標的は私自身なのだから。

私は〈私〉という髪の毛一本の毛先ほどの概念に操作され、支配されていることを自覚した。私はすべてを思い込んでいる。その思い込みは明らかに間違っているのにもかかわらず、寸分も違わず私なのだ。さらに、私はこうして、違うとか違わないとかしきりに言うが、何を基準にして言ってるのだろうか。わからない。ただ言えることは、この生命を前進させるためのエネルギーを引っ張り出す装置としての違和感であることははっきりしている。ということは、妄想も基準になり得るのだ。

人はいつからか、〈私〉を立ち上がらせることによって、その存在意義を、本質性から機能性へと方向を変えた。利便性を追求することが第一義で、命がなんであるかは、とりあえず後に回した。そして、命に〈私〉という主人を授けたのである。主体となった〈私〉は命を対象化し始めた。「私は身体を持っている」という感覚が育ち、身体も命も〈私〉の遊び道具になった。つまり、人は命を感じることより、命に何ができるのかを試す、実験の道を選んだのである。揺るぎない〈私〉の下に存在の全要素が解体されようとしている。それは本質を追求しているかのごとくに見せかけた副産物的世界を作っていく。最近、仮想現実が注目を集めているが、これは何も驚くに値しない。人類は命がけで前頭葉にエネルギーを集め、ことばを紡ぎ出してきた。ことばの発達は、そもそも現実を仮想化していくプロセスそのものなのである。

揺るぎない〈私〉は、血の流れていない生命を次々と生み出す。別の言い方をするなら、静止したリアリティーの増殖である。命を静止させることは、死を回避する目論見からのものだが、死がなければ命が動き出さないと言う摂理と反するがゆえに、揺るぎない〈私〉もやがて自滅していく。しかし、気がつきさえしなければ、私たちは、生きていようが死んでいようが、病に伏していようが、何でもよいというところがある。副産物的世界とは、気がつかないように、気がつかないように、目を閉じ、耳を塞ぎ、口を結び、手足を自ら縛って、案山子のように突っ立って、たとえ命が亡くなっても〈私〉は絶対に〈私〉を明け渡すものかと踏ん張る者たちが創造する世界のことである。

この〈私〉というプライドと傲慢さで埋め尽くされたところの揺るぎなさ。それを自立と呼ぶなら、私たちはなぜ揺るぎない〈私〉を作り上げてきたのか。ひょっとしたら、大いなる宇宙への生贄として命を差し出す最善の方法なのかもしれない。にしても、気がついてしまった以上、命を揺るぎない〈私〉の奴隷にしておくわけにはいかなくなってきた。髪の毛一本のそのまた毛先ほどの概念に、この命の流れを預けるわけにはいかない。なぜなら、この存在は〈私以外〉のもので充満しているのだから。その決意が、宇宙に対する礼儀の始まりというものだろう。


三鷹 整体治療院「からだはうす」

1984年心身のメカニズムを探求する場として「からだはうす」を開設。 整体治療による施術を中心に呼吸法、ヨガ、ストレッチを通して、心身の不調改善の作業と共に取り組んでいます。 精神的不調については随時カウンセリングを行います。

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