まつりの呼吸 ⑥

言葉という鏡

私は言葉というものが鏡に喩えられるのではないかと思うことがあります。私たちは自分の身体がどういう姿であるかを鏡をとおして知ります。しかし、実際にこの肉眼で直接自分の顔を見た人は古今東西誰一人としていません。自分の背中を直接見た人もいないでしょう。鏡や水面とか映るものがあってはじめて自分の顔がわかるのです。顔や背中は他人の方が直接肉眼で見ています。そう考えると私たちは実際のナマの顔を知らないのです。

この、本当は直接知らないのにあたかも知ってるかのごとくに納得させてくれるものが鏡です。私たちは鏡というフレームを通した顔しか知りません。身体の柔軟性で多少の違いはあったとしても、私たちは直接肉眼で、メガネをかけていたとしても、肉眼で直接見たことがない身体の部位は結構あります。頭や首の後部、背中の上部などです。その見ることのできない部位を映し出してくれるのが鏡です。

直接には見ていない、直接には聞いていない、直接にはやってもないけれど私たちは知ってることがたくさんあります。ほとんどの知識が本や他人から言葉に映したところの情報です。それをあたかも自分の意見や考えとして納得します。言語はいろんなことを認識し吸収していく装置としてあります。本当は見たことがない自分の顔を認識する装置として鏡があると考えると、言語との共通性が見えてきます。

本当のところは経験がなくても言葉はわかったこととして表現できます。実際の顔は見たことがないけど鏡によって自分の顔がわかります。言葉が世界を開いていったことを考えると、日本の古代から天皇家に伝わった三種の神器のひとつに鏡があることの意味がわかるような気がします。剣はパワー(地球の核たる鉄)、鏡は言葉(太陽光を反射)、そして勾玉は人間の象徴ではないでしょうか。聖書にある「はじめに言葉ありき、言葉は神であった」という言葉と同じような感性が日本民族の祖先にもあったのだと。

三鷹 整体治療院「からだはうす」

1984年心身のメカニズムを探求する場として「からだはうす」を開設。 整体治療による施術を中心に呼吸法、ヨガ、ストレッチを通して、心身の不調改善の作業と共に取り組んでいます。 精神的不調については随時カウンセリングを行います。

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