まつりの呼吸 ③
言語の固定化と同一化
意識とは自分の状態や状況がわかるということです。そして、「わかる」ということは言語化できる状態のことです。しかし、言語化できることはすべてわかっていることかというとそうでもありません。私たちは外側にある言葉を学習し覚えていきます。実は個人から生まれた言葉を使っている人はいません。ある任意の感覚に対して覚えた言葉を当てはめているのです。身体内部の感覚を覚えた言葉で表現するとき本当にその言葉がピッタリしているかははなはだ疑問です。思考、意見、主張、見解などもほとんどが洗脳の産物です。だから創造が際立つのです。
言葉はテクニカルなツールです。それぞれの民族に独特な言語構造があるし、使い方も定義付けされています。そして何よりも、言葉は物事の固定化に働きかけます。人間の性質の根本にあるのがこの固定化と、もうひとつは同一化です。思考は固定しないと働かないし、同一化は「人は世界を見たいように見ている」という箴言に現れています。時々の権力者や彼の国の大統領が自分と国家を同一化しているのを見れば頷けるかと思います。家族や地域、会社など所属する組織との同一化もよく見られます。
私たちの身体生命はとどまることなく動き変化しています。自然界も社会もそうです。ただ人間の意識だけはこの瞬間を固定しようとするのです。こういう文章も固定化の一種です。人間は固定化しないと先に進めない生き物なんです。よく、身体も思考も柔軟性が標榜されますが、ほっとくとどんどん固まっていくのが人間の性です。固定化も同一化も揺るぎない自己へ、確固たるアイデンティティの強化へと繋がります。私たちはそれだけ不安定な生物なのです。
目標がしっかり固定されると強い意志の力も発揮されますし、物事を認識したり分析するためには固定化は絶対必要です。そうなると、身体生命も自然も社会も変化し続けるのに思考意識だけは固定しようとする矛盾のようなものが出現します。人間存在の原理に矛盾が内包されている。コントロールする力、管理する力としての意識がなぜにこれほど発達したのか。自然界はこれほどに反自然的な振る舞い機能を有する人類をなぜ登場させたのか。ただこの疑問を創出させるためだけに登場させたと思わなくもないのであるが。
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