まつりの呼吸 ②
こうして体験的な呼吸法の説明をするにあたっても使われるのは言葉です。そこで、まず人間観や世界観を語る道具としての言語について少し考えてみたいと思います。
私たちは生物的本能で生活を営んでいるわけではありません。人類は生物的本能から逸脱していく方向に舵を切った生き物だと言えるでしょう。大脳が発達し、中でも言語野の発達が生活の真ん中に根をおろした時、言語は人類進化の切り札となったのです。言語にはバラバラなものをひとつにする力があります。コミュニケーション、繋がり、そして集団化、言葉に立脚した一人一人の力が寄せ集まり巨大なパワーとなることで文化文明というものが作られてきたわけです。文(ふみ)とは言葉のことです。
文明に対して正の遺産、負の遺産というような捉え方もありますが、歴史の裏舞台ではあってはならないようなことも含めいろいろな出来事が連綿と発生してきました。今この瞬間でも世界の70数億人がそれぞれ固有の体験をしていますが、それは歴史にはなり得ません。歴史になり得るのは人々の共有感覚に根差した出来事の出現です。つまり感覚の集合化です。言語はこの集合化を顕在させるための内在化されたテクノロジーです。流行語などはその端的な例です。
突き詰めれば言語化は脳内細胞レベルでの連結スイッチのオン、オフの問題ですが、長い時間を思考錯誤しながら発達した言語はその役割を意味と価値に重点を移してきました。古代から伝わる宗教教義は言葉による生き方設計図として登場したと私は理解していますが、それは心的感覚領域を集合的に表現したものと言えます。それによって人々が自らに生きる意味と価値ある行いを問いかけはじめたのです。そして、私は現代人の精神ストレスの根っこにあるのはこの意味と価値の概念なのだと思うのです。意味と価値の普遍化が病の因だと。
「はじめに言葉ありき、言葉は神であった」聖書のこの言葉は人間界の可能性を喝破したものですが、意味と価値の普遍化志向は「人間はこうあるべき」という目標を設定しました。そうして自然身体は言語に管理されていく流れが始まったのです。しかし、人間が自然界を管理し切れないのと同じように、人間身体にも管理できない領域があります。まつりの呼吸はその領域を覗く作業として行われるものです。
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