お祭り的な社会装置の限界 ①


「まつりの呼吸」のワークではよく変性意識という言葉が使われますが、それは日常生活ではあまり体験しない感覚体験のことです。意識や無意識と違って言葉に馴染みがないだけで、よくわからないものとして扱われがちです。しかし、意識の変性装置は日常生活の此処彼処に見られ、且つ、誰もが行なっていて、それを導く装置は社会の至るところに設定されています。

簡単に列挙してみると、ディズニーランドのようなテーマパークで遊ぶことやお酒を飲んで大騒ぎすること、さらに音楽のライブやスポーツイベント等で興奮することは日常意識の縛りからの開放を目論んだ社会装置として機能しています。これらのレジャーはみな「お祭り」的な要素を含んでいます。そして、ストレスの解消や心の癒しをもたらしてくれます。勿論、年中行事として各地域で催される「お祭り」も同様に非日常に誘う装置として設定されています。

集団的興奮ではなく個人的な過緊張からくる意識変性もあります。危険を伴う登山や異国への旅、厳しい修行、重篤な病気なども非日常的な感覚体験となります。そして、忘れてはならないのが恋愛です。寝ても覚めても彼や彼女に夢中な時は通常意識を逸脱していると言えるでしょう。

このように変性意識とは何も特別なものではありません。私たち人間は日常と違う意識状態になることに魅かれるようにできています。脳には報酬系と言われるドーパミンというホルモンがあり、その分泌が非日常の興奮と快感をもたらします。

変性意識という言葉の一般的理解は、ある種危険で異常な意識状態になるイメージだと思われますが、実際、無意識的生体反応として日常に逐次現れています。私たちは自らをコントロールできる範囲において羽目を外したがっている自分に思い当たると思いますが、変性意識への希求は異常なことではなく、人間の生命衝動の必然としてあります。

私たちの日々は、ほぼ学業や仕事や家事の忙しさで忙殺されています。そうしたことに携わっている時間は、気持ちも行動も対社会に向き合っており、次々に目の前の作業に追われています。それでも、そうした生活の間隙を縫って上記のようなレジャーに身を投げ出して、日頃のストレスを解消したり、楽しんだりしているわけです。ということは、そうした時間は何かしら生命の必然性から生まれたに違いありません。心身には癒しが必要だということです。

しかし、日常の中に心身の癒し装置がたくさん設定されているにもかかわらず、あえて呼吸法を行って、変性意識の体験をしようとするのはなぜか。それは、現代社会における日常的癒し装置としてのお祭りやイベントには、自らの内面をしっかりと見つめて、思考や反応のパターンを認識して変革したり、より創造的な感性を掘り起こしていこうとする視点が欠けているからです。つまり、本来、お祭りに内在する人間生命の奥深い衝動にフォーカスせず、単なる商業的イベントか、伝統を守っているという自己肯定感を満足させるための行事になっています。

「まつりの呼吸」は単にストレスを解消するとか、健康を維持するという目的にとどまりません。私たちの生活に絡み付く不安や不満への根源的理解につながるアプローチです。私たちの意識は通常、社会のシステムに適応しようと働きます。しかし、生命の心身システムは、社会に対して適応しようとするだけではないエネルギー衝動が組み込まれています。「まつりの呼吸」はその生命衝動を体験として理解していこうとするものです。




三鷹 整体治療院「からだはうす」

1984年心身のメカニズムを探求する場として「からだはうす」を開設。 整体治療による施術を中心に呼吸法、ヨガ、ストレッチを通して、心身の不調改善の作業と共に取り組んでいます。 精神的不調については随時カウンセリングを行います。

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