なぜ「まつり」か

原始の時代から人間はお祭りを催してきた。そのお祭りにはいろいろな要素が含まれている。聖なるものへの祈りと感謝を核にしてきらびやかなエネルギーが渦巻く場となる。それらのエネルギーには、感情の解放や爆発をはじめ、性の解放、変身願望(仮装)、さまざまなアートの顕現、誕生と死への畏敬、共有体験の濃密さなど、人々を日常から引っ張り出す無礼講の場となる。私たちは呼吸を通して、それらの祝祭的時空が実は私たち自身の内面に蠢いている事象だと気づく。非日常の無意識領域は祝祭空間なのだ。


私たちは日常生活を送るうえで過剰とも言えるほどに、社会のルールや習慣に合わせている。社会というのは、基本的に意識の力を使って「やってはいけないこと」と「やらなければいけないこと」で成り立っている。ゆえに意識の出力の半分以上は抑圧的である。だとすると、自覚があろうがなかろうがストレスは溜まる。そのストレスを解放するための社会的装置(さまざまなレジャー施設やイベント等)も用意されてはいるが、残念ながらただの興奮と発散で終わる。そしてまた、ストレスの溜まる職場や学校に戻っていく。多くの人々はその行ったり来たりを繰り返しながら生活を営んでいる。


そういった社会の在り方に対して、ついていけずに脱落する人や、表面上は適応しているように見えても、どこか違和感や馴染めなさを感じている人々もいる。すでに、自分の居場所がないと自覚する若者も増えている。


いつのまにか過剰に意識化の方向に進む現代において、私たちが人として取りこぼしてはいけないものは何かを考えたとき、それは、未だ身体に眠る個人レベルの感覚や感情ではないだろうか。無意識領域への信頼と言ってもよい。そうして自己を刷新していくプロセスを通じて見えてくる世界観、社会観、人間観がある。もっと、柔らかく溶け合うような存在になる為に。


そこで「まつりの呼吸」だが、はじめに身体のデトックスを行い(やり方は後に説明する)、次に、とにかくたくさん吸ってたくさん吐く。それを続けると心身のエネルギーが活性化し、意識という物事をコントロールする力が弱まる。だんだんぼーっとして物事を考えられなくなり、一気に感情が溢れる、手足が勝手に動き出し踊り出す、動物や植物になる、忘れていた過去の記憶が思い出される、鮮明なビジョンを見るとか、いろいろな体験の報告がある。


そうした体験は人それぞれ、その時々にさまざまであるのだが、普段は意識すらしないことがなぜ体感として、身体現象として現れるのかを考えたとき、これこそが呼吸による無意識領域への潜入現象として理解できる。つまり、日常では使われないエネルギーが噴出する。呼吸の力は可能性に満ちている。それは、古来に登場したお祭りの祝祭空間に内在したエネルギーと同様だと思われる。ので、下にその類似性を表にして示そうと思う。


本来のお祭りと「まつりの呼吸」に共通して内在するエネルギーと日常に組み込まれた行事としての装置を表にしてみました。↓

三鷹 整体治療院「からだはうす」

1984年心身のメカニズムを探求する場として「からだはうす」を開設。 整体治療による施術を中心に呼吸法、ヨガ、ストレッチを通して、心身の不調改善の作業と共に取り組んでいます。 精神的不調については随時カウンセリングを行います。

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