断想
近代の通過儀礼は思春期から青春期にかけて自らの衝動によって社会に対する反動的な行動表現をすることであった。それが現代は、幼い時から競争を強いられ、すべての反抗を奪われたのである。
日常に蔓延する競争は常に未来に対する不安や怯えを植え付ける格好のシステムであり、従わないと弾かれ置いていかれるというシステムである。それがバブル以降の時代の潮流となった。少数の勝者に仲間入りできなかった多くの人々は徹底的にインプットされた不安と怯えの中で社畜に甘んじ辛うじて我が身を保っている。
だが、それに耐えきれずに脱落する者も増えてきた。
数多の精神障害はそうした社会構造から(それだけではないが)生み出された。幼少の時からの不安と怯えは大人になっても継続したままなのだ。
つまり、成人してからの競争社会に耐えられるだけのエネルギーの蓄えをそれ以前の成長過程でやってこなかったのである。むしろ、疲弊した成人となって社会に放り出されたのである。
思春期から青春期にかけてはエネルギーの迷走、暴走期である。
その迷走期に自らの方向性が作られていく。
「社会貢献」という悪魔の言葉がある。
人々がこの言葉に引っかかっているうちに権力は好き放題に私腹を肥やす。
本来なら、権力を持つものがしなければならないことを国民にやらせているのである。
システムに乗った個人の満足は全体の変化の狂いを感知できない。
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